カサエゴ

Casa Egoista (定員一名の小さな家)

寿命の到来

 序一 家の寿命とは

 

家の寿命は実際のところどれくらいだろうか。
資産評価としては木造は20年、RCでも50年を経過した時点で一円の価値もないと評価されるが、それは住まいとしての寿命を指すものでないことは言うまでもない。本来の意味での家の寿命、すなわち人の住処たる構造体として十分な強度を何年間保ち続けるかを確かめた例は日本には殆どないのではないだろうか。

・間取りや広さ、構造が住人の要件を満たさなくなったから
・修繕が続いて住人に住み続ける意欲がなくなったから
・住人がいなくなったから
・売却するにあたり更地の方が資産価値が増すから

殆ど全ての家はこれらのどれかあるいは幾つかの理由により、本来の構造体としての寿命を迎える前に取り壊されてしまうからだ。

では本来の構造体としての寿命、すなわち「倒壊の危険により住み続けることができなくなる」まで何年かかるかと言えば、これが案外長いのではないか。究極の例として千年以上その姿を保ち続ける法隆寺五重塔が挙げられる通り、適切にメンテされる限り木材は非常に長くその強度を保ち続ける。時間の経過とともにCO2による中性化、それによる鉄筋の腐食で崩壊のリスクを抱えたRCより(シロアリに食い荒らされなければ)サステイナブルな素材なのではないかとすら思う。
周囲を見回してみても築50年近い木造住宅はざらにある。より進化した現代の建築技術で建てられたのであれば、大地震などの外乱要因がなければその倍くらい持つのではないか。と考えているがどうだろうか。とりあえず我が家は家主が死ぬまでもつくらいは問題なくクリアしそうだが。

 

序二 機械の寿命はどうか

家の寿命を「構造体として自立できないほど強度が落ちた時点」とするならば、機械の寿命はどの時点で訪れるのだろうか。実はこれはあってないようなもので、なんとなれば機械は機械である以上あらゆるパーツは取り替えが効く。フレームでさえ取り替えることが出来るのだから、理論上は寿命はないと言っていい。
しかし、それでも寿命はある。それも三段階に。

第一の寿命

最初の寿命は、パーツ供給が途絶し修理ができなくなった時点で訪れる。自動車メーカーは車体の生産終了からも10年のパーツ供給を義務付けられているが、その期間を過ぎた後にパーツが手に入るかはメーカー次第。機械である以上、故障はパーツさえ入手すれば直すことは出来るが、逆に言えばパーツがなければどうにもならない。したがってパーツが手に入らず修理不能な状態に陥れば、ひとまずはそこで機械としての寿命を迎えたと言っていい。
普通のオーナーはここで手放す。

第二の寿命

純正パーツが手に入らなくなっても、同じような他の機械のパーツを流用できればまだ延命は可能。純正品にこだわるオーナーには受け入れられない手段だが、旧車オーナーの多くはこの手法(と、協力的な整備工場)を駆使して愛車を維持している。
しかしそれもいつか限界を迎える。他パーツの流用も効かない箇所が故障したときが第二の寿命であり、ほぼ全てのオーナーはここに至り維持を諦める。

第三の寿命

しかし機械はあくまで人が作ったものである以上、どこまでも人の手でなんとかすることができる。即ち、ないパーツは作ってしまえばいい。それを続ける限り機械は半永久的に動き続けることができる。
工業製品のパーツを新たに作り起こすのは大変なコストがかかる*1のでごく一部のエンスージアストか圧倒的な資金力がある好事家のみ選択する手段だが、それも長くは続かない。極端に言えば購入するのと同等の金額をかけて修理するか*2と問われて首を縦に振りつづけられる人間はまずいないわけで、一回は無理できたとしても二回三回と続くうちにいつかは金も気力も尽き、そしてそれ以上の維持を諦める。それが最後に訪れる寿命。
結局は「オーナーが維持を諦めた時」が本当の意味での機械の寿命であり、その意味で言えば本来は寿命などないはずの機械はその実殆どが寿命を全うしている、ということもできるのだ。

 

本題。自分の車に寿命が訪れた話

長い長い序文はここまでにして本題に入ると、購入20年目に突入した自分の車はとうとう「第一の寿命」に到達してしまった。
ここ三回の遠出で三回連続のエンスト&レッカー。自動車の信頼性が著しく向上し、エンストなんていう言葉も道端で立ち往生する車も遠い昭和の遺物となった平成の終わりにおいてエンストに次ぐエンスト、レッカーに次ぐレッカー。高速道の路上での立ち往生は直ちに生命の危機に直結するわけで、笑いごとでは済まない。
更に故障個所のパーツはとうの昔に廃番になっていて、修理のためには他の車のパーツで使えそうなものを探さなくてはならない現状。修理できたとしても原付二台分程度の費用は軽くかかってしまう見込みで、普通であれば手放す以外の選択肢はないだろうが、後述の理由により今回だけはコストをかけて走れる状態に治すこととした。
それでもしっかり治らない場合は、これ以上維持することはあきらめざるを得ない。不動車であっても盆栽のように蒐集してガレージに並べて楽しめればそれでいいというお金持ちもいるかもしれないが、車は走らせてなんぼ派の自分にとってはどんなに希少であっても運転できない車は持っている価値がないからだ。

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何度目のドナドナだろうか
しかし、欲しい車がない

 そう遠くない将来に訪れるかもしれない車との別れを見越してその次をどうするか考えた場合に、「買える車で欲しい車」がこの世に一台もないことに気づき愕然とする。
我が家に駐車できるサイズ、即ち全長4m程度で自分が譲れない条件(MTの後輪駆動)を兼ね備えた車は世界広しといえども僅かにロードスターN660エリーゼケイターハムモーガンXBOWくらいしか見当たらない。ロードスターとN660は明らかに今の車よりファントゥドライブ性能が劣るので食指が動かず、その点問題なさそうなエリーゼはアニメチックなデザインが生理的に受け付けず、ケイターハムは実用性が低すぎるので日常で使えず、モーガンとXBOWはとても自分の手の届く価格帯ではない、ということでやはりぴったりくる車が一台もない。だからこそこれまで自分の車を修理を繰り返しながら乗ってきたのだが、それがなくなるとなると代わりに乗るべき車は存在しない。
ということで最近はアグスタやらKTMやらハスクバーナやらの動画を眺める時間が増えた。身体が動くうちに二輪に回帰するのも悪くないかもしれない。

 

*1:廃番となっていたライトカバーのワンオフ製作を試みたが金型作成だけで50万円を見積もられ、急遽同志を募って20人の共同出資という形で漸く実現に漕ぎつけた話を知っている。単純な形状のアクリルパーツ一つ作り起こすのでさえ、大の大人が20人集まって金を出し合わなければ叶わない。大工仕事とは訳が違うのだ

*2:パテックフィリップは自社で販売した時計はどんなに古いモデルであっても修理すると広言しているが、それほど感心する話でも驚嘆すべき話でもない。なぜなら彼らは「リーズナブルに」とは一言も言っていないからだ。そりゃ金に糸目をつけなければ何でもできるでしょ。アンティークの時計を購入して整備に出したら買った時以上の金がかかったというのはアンティークあるあるといっていいほど非常によくある話。