カサエゴ

Casa Egoista (定員一名の小さな家)

SMGs:持続可能な維持目標

日頃よく見るYouTube動画の中に「一生声変わり中」でおなじみのモータージャーナリストウナ丼氏のチャンネルがあるが、氏の愛車であるメキシコ製ビートル*1が先日走行中の突然のブレーキトラブルでレッカーされたという。

 


一番新しい年式でも18年落ちの中古車だから不意の故障もレッカーもさもありなん。しかしブレーキのトラブルとは穏やかでないな位に軽く思って暫く忘れていたのだが、先日ふとチャンネルを覗くと、折角日本中を探し回って手に入れた愛車ビートルを氏が手放すことにしたという動画がアップされていた。

 


車はドライブすることで楽しみたい、そしてそのような関わりあいが叶わないなら潔く手放す。その心境はウナ丼氏と年齢の近い自分にもよく分かる。
人生の残り時間を考える歳なのだ。車の運転には一定以上の動体視力や反射神経、瞬間的な判断力、さらには体力も求められ、それらは老いとともに確実に失われていく。老いさらばえて死の床に就く間際まで続けられる趣味ではなく、ハンドルを握ることの出来る時間は限られている。若い頃は遥か彼方に霞んで見えなかったタイムリミットは今や肉眼でもはっきり見えるくらいまで近づいてきていて、ただでさえ残り少ない時間の、その何割もの部分をただ修理から帰ってくるのを待つために浪費するなんて到底耐えられない。

そう考える気持ちはよく分かる。今は(走行に直接関係しない箇所を除けば)概ね快調の我が23年落ちの車であっても、長距離ドライブに出かける度にレッカーでドナドナされていくような状態の時はさすがにウナ丼氏と同じような理由で手放すことが頭をよぎらないではなかったからだ。ただ手放したところで今の車以上に気に入りそうな車などこの世に存在しない*2し、幸いもう一枚の運転免許証を持つ自分はマリア・アントニア*3ばりに「クルマがダメならバイクに乗ればいいじゃない」とばかりにバイクとの二台体制にしたので精神的にも随分余裕ができたものだが、気が付けばネオ・ビンテージと呼ばれる年式に片足を突っ込んでいる我が車もどこまで維持し続けられるものか*4・・車のハンドルは80歳まで握り続けるつもりでいるが、跨る者により多くの条件を求める*5バイクはその歳になる大分手前に降りなければいけないだろうことを考えればやはり終の相棒はバイクではなく車。そして我が家を維持するより大変なこの古い車の維持をやり繰りするのが残りの人生の重要なテーマの一つとなるだろう・・これが原チャリならどんなに楽なことか

 

*1:空冷ビートルはVWの本国ドイツでも40年以上も前に生産を終了しており、その後2003年まで生産を継続していたのがメキシコ。なので現代の日本で普通の中古車として流通している空冷ビートルはメキシコ産のみ

*2:Dino206/246は唯一の例外だが、我が家を売り払っても買えない程価格の高騰した今となっては入手できる可能性はゼロ。手に入れられない車はないのと同じと考えれば今の車以上に気に入る車はこの世にほぼ存在しないといってよい

*3:「パンがないならブリオッシュを食べればいいじゃない」が彼女の発言でないのは巷間でよく知られている通り。個人的には当時の上流階級の浮世離れっぷりはこの言葉よりも、国王一行の呆れるほどちんたらのんびりしたオーストリアへの逃避行により強く感じられる

*4:扶養家族が一人いるのと変わらない

*5:車より遥かにプリミティブ(野蛮ともいう)な乗り物であるバイクは、したがってその成り立ちの多くを乗り手の肉体に依存する。車を運転するのには求められない「筋力」が必要不可欠であることからもそれは明らかで、なにせ乗り手が踏ん張って支えてやらなければ立っていることすらできないのがバイクという乗り物なのだ