カサエゴ

Casa Egoista (定員一名の小さな家)

越南縦断(4)3月3日 フエ2

 

カイディン帝廟

バイクタクシーの後部座席で揺られること暫し、まず到着したのはカイディン帝廟。建築はおよそ今から100年前とそう古いものではないが、その他フエの歴史建造物とセットで世界遺産に指定されている。18世紀から20世紀の阮朝の歴史はそのまま激動のベトナム近現代史であり、旧首都フエを楽しむにはそれについての最低限の予備知識と予習は欠かせない。「何かわからないけどすごーい」となるか「ほー、これがあの」となるか、前者でも別に悪くはないが、後者であれば前者の10倍も楽しめる筈ではないだろうか。

 

 










 

ここに葬られているカイディン(啓定)が阮朝第12代皇帝であった頃(日本では大正から昭和初期)のベトナムは既にフランスの保護国(仏領インドシナ)として主権を失い、皇帝とはいえ宗主国フランスの統治システムの一つに過ぎないものだった。なのでその首はフランスの都合でいかようにも挿げ替えられる。反骨精神あふれるベトナム人はフランス支配下でも反仏独立運動の灯を絶やすことなく*1、その勢力に与した10代タインタイ(成泰)帝、11代のズイタン(維新)帝はともにフランスにより容赦なく排除されマダガスカル島に流刑となっている。

それを目の当たりにしてきたせいもあるだろうが、フランスが次に皇帝に据えた十二代カイディンは政治的には民衆と距離を置き、フランスの庇護下で享楽的な生活を送ったとして当時の国民からは概して評判の悪い皇帝であり、コンクリート造のこの廟を生前に建設するために20%もの増税を国民に課したことでその悪評は決定的なものとなったらしい。

 

ミンマン帝廟

続いて訪れたのが第二代皇帝ミンマン(明命)の廟所。カイディンから遡る頃およそ100年、始祖であるジャーロン(嘉隆)帝の跡を継いで1820年に即位したミンマンは儒学に重んじ、父である嘉隆帝の政権樹立を支援したフランス人や建国の功臣を遠ざけ、中国*清)に倣い強力な中央集権体制の構築を推進した。それまで各地方が半独立的な存在であったベトナムが近代的な中央集権国家として生まれ変わったのはミンマン帝の功績といっていい。
ミンマンの行ったことで特筆すべきは国号を「中国のずっと南」を意味する「越南」から「大南」に改めて自国を中国周辺の一属国から「小中華」と再定義したことであり、当時の中国(清)の支配体制に組み込まれるだけでなく自国を中心とした周辺諸国の支配体制を整えるという器用なことをやってのけた点にある。一言で言ってミンマンは「中国ワナビー」であり、そのため阮朝の設立に絶大な支援を行ったフランスとの通商関係を絶ち、国内のキリスト教宣教師も追放して西洋の影響を悉くシャットアウトしてひたすら中国式の国作りに邁進した。この頃のベトナムはまだ自力でフランスを追い払うだけの力があったということであり、同時にフランスがベトナム進出に本腰を入れていなかった時代であったともいえる。

・・という蘊蓄を踏まえて見るミンマン帝廟は、当時のベトナムの国力の充実ぶりを反映したかのように壮大な構えで落日のカイディン帝の廟(これもなかなかに立派なものではあったが)とはスケールにおいて比較にならない。廟所というより庭園とよぶのが相応しいほどのものだ。

湖を二つ超えた先に墓所がある。敷地全体は東京ドーム5個分はありそう

 

 

 

 

 

一直線の通路をまっすぐ進み、石段を昇って降りて昇って降りてを繰り返し、一番奥の石段を昇りつめたところに円いミンマンの墓所はある。門は固く閉じられており内部の様子を窺い知ることは出来ないのだが。

堅く閉ざされた門扉は最近開かれた痕跡もない

ミンマン帝廟の所定のコースは単純な直線を往復するだけのものだが、途中に挟まれた二つの湖畔は気持ちのいい散歩コースでもある。カイディン帝廟を見るのは三十分もあれば十分だが、ミンマン帝廟を駆け足で見て回るのは勿体なく、出来れば二時間はかけてゆったりと見て回りたい。


























*1:当時のフランスによる反仏独立勢力への過酷な仕打ちは後日訪れるハノイのホアノー刑務所で目の当たりにすることとなる。