カサエゴ

Casa Egoista (定員一名の小さな家)

展覧会三昧の春

2021年の春は興をそそられる展覧会の催しが相次ぎ、小まめに時間を取ってはいそいそと出かけていく日々。
地価がバカ高いとか人多すぎとかどこにいっても大渋滞とか自然が少ないとか東京に住むデメリットは数あれど、一級の文化芸術の類に触れる機会が地方都市に比べ格段に多いのが東京に住む最大の利点。ネットで色々な情報が入る時代とはいえ、生で接しなくては感じられない、理解できないことは沢山ある。そしてアートはその最たるもの。なのでその恩恵に浴す機会はなるべく設けるようにしている次第。

 

小村雪岱展(三井記念美術館

まずは2月も終盤の小春日和の日、S氏も見に行ったという小村雪岱展。

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関東大震災の二倍の揺れでも耐えられるように設計された建物(旧三井銀行本店)それ自体が見どころ

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そして撮影禁止の標識がないことをいいことに撮影して警備員に叱られる

画家、イラストレーター、装丁デザイナーや演出家として活躍したという今でいうマルチタレントであった小村雪岱。本が貴重品であった時代は今では考えられないほど本の装丁に手間暇コストをかけていたことが分かる展示品が興味深い。
女性の描き方に鏑木清方の影響が強くみられるも、本人はそれを否定。鏑木清方の作品はほぼ見ていないと言うが、それにしては似すぎ。後述の川瀬巴水は鏑木の門下であっただけあって構図の取り方などその影響が見て取れるが、小村と川瀬の絵を比較すれば余白の置き方など似ていなくもない。
展示コーナーの最後のには小村作品にインスパイアされた現在の作家の作品も幾つか出展されているが、一木削り出しの百合の枝や継ぎ目が分からない竹ひごメビウスなど、超絶技法によるこれら数々の作品も見どころ。 

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付近の日本橋に新しい歩行者専用橋を建設中

 

吉田博展(東京都美術館

小村雪岱の次の週、打って変わって凍える雨の降る三月初旬。川瀬巴水と並んで好きな新版画作家の吉田博、その非常に希少な単独展とあれば勿論行かない筈はない。

東京都美術館のある上野公園までは都バスで一本。電車を乗り継ぐことなく自宅近くのバス停から一本で直行することが出来る地の利は、こんな悪天候の日は特に有難い。

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上野公園では早咲きの桜が既に満開、しかし冷たい雨が降る

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美術館を辞す頃には雨の勢いはいよいよ強く、帰りのバス停まで歩く間に身が凍える

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絵師、彫師、摺師と役割の異なる三者の共同作業で出来上がる木版画はアートでありながら手工業製品でもあって、単なる絵と違う完成に至るプロセスの特殊さも木版画に惹きつけられる理由の一つであると思う。吉田博の原画を忠実に版にする彫師の腕もまた見事なもので、会場ではその木版も何点か展示されているが、髪の毛のような細い線を見事に木版で再現している彫り作業の精密さにも驚嘆する。油絵なら塗り損なっても上から塗りつぶすことが出来るが、木版は一刀彫りそこなったらまた一からやり直しであると考えれば尚のこと。

同じく精密な画であっても川瀬巴水の引く線はやや日本画風で情緒があり、対照的に元々洋画家であった吉田博の線はGペンで書き込んだように無機質でより細かい。川瀬はコントラストを効かせた大胆な色遣いを得意とし、吉田は繊細な色遣いのグラデーションを得意とする。どちらも甲乙つけ難いが、吉田博の描く明暗や夜景は本当に魅力的で、光に対する影がちゃんとあって夜が夜らしくあった昔はロマンチックな時代だったと思わずにいられない。
川瀬巴水の版画は最早一般人が購入できる価格ではなくなっているが、吉田博ならまだ何とか手が届く。当時の日本画壇の大御所であった黒田清輝やその一派(白馬会)へのアンチを貫いた反骨精神溢れる人柄や、当時としては珍しいマーケティング感覚を持ちあわせた画家であった点も好ましい。

 

電線絵画展(練馬区美術館)

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そして次の週に向かったのは電線絵画展と題した、景観を損ねる嫌われものである電線と電柱に敢えて着目しそれらをテーマとした展覧会。文明開化とともに明治初期に初めて設置された電線や電柱は電化のシンボル、即ち文明化と近代化のシンボルとしてそれまで蝋燭と行灯で暮らしていた日本人には誇らしいものであったことが当時の錦絵から伺い知ることが出来る。
近代日本の風景をテーマに用いた川瀬巴水と吉田博の作品も何点か表示されていて、風景の中に電柱をありのままに描いた川瀬と、電柱をないことにして描いた吉田の対比がほぼ同じ構図の版画で示されている点も面白い。あまり期待しないで行ったものの、展示作品のボリュームも十分で思いがけず川瀬や吉田の作品も見られ、個人的にはとても満足度の高いもの。

 

ムーミンコミックス展(茨城県近代美術館)

これは未見。一方的に北欧に縁を持っているつもりの身としてはこれも是非見ておきたい展ではあるが、もうじき終了(3月14日迄)なので果たして間に合うか。

三寒四温

妙に暖かかったかと思えば翌日は再び最高気温一桁に戻ったりで安定しない今日この頃、我が家の福寿草の満開を以て春の到来を認定。
今年は2月22日

 

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アオダモの方は随分遅く、福寿草の満開に遅れること2週間、即ち今日になって漸く新芽がほころび始めたのを確認。

 

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毎年春になるとぐんぐん伸びていたアオダモの枝、今年は伸びしろは確認できず高さの成長は止まったよう。既に樹高4mに届くほどになっていたのでこの辺で成長が止まるのは丁度いい

家づくりの達人達

達人達って何か変だな。上から読んでも達人達、下から読んでも達人達。海苔か。

海外からの見学者も訪れるという、セルフビルドハウスで最も名高い「蟻鱒鳶ル」は家というよりほぼアート。着工より15年を経てもまだまだ完成の目途も経たないところからして、建築士であるご本人も最早ここを自らが住まう家としては見ていないだろう。現代のサグラダファミリアになぞらえる人もいるが、その表現が最も似つかわしい。

 

www.youtube.com

 

アートはアートでいいのだが、より興味をそそられるのはやはり自ら家を建て、しかも家を家として(週末の別荘なんて小洒落たものではなく)そこで日々の生活を営んでいる人々。
最近良く見入ってしまう以下の三者に比べれば自分のDIYなど児戯に等しいものだと思い知らされるし、あれで「苦労しました」なんて恥ずかしくて言えることではないなとも思う。

 

 

工法は軸組だったりツーバイだったり様々だが(軸組工法に拘って一人で我が家より広い家を棟上げしてしまう反面さんには脱帽するほかない)、最後のアカウントはなんとご夫婦。セルフビルドもさることながら、このような生活に理解があり付き合ってくれる奥様を見つける方が遥かに至難の業ではあるまいか。すごいなあ(小並感)

 

 

11年目のリニューアル(10)一か所だけコーキング打ち直し

築10年ともなるとマンションなら最初の大規模修繕、戸建て住宅においても外壁のメンテナンスが必要となる時期となるが、ガルバリウム鋼板のいいところはサイディングボードで必要とされる再塗装やリシンの壁で必要となる再吹き付けなどの外壁リフォームは10年程度ではほぼ必要ないこと。さすがにガルバリウムと雖もいつまでもメンテフリーではないだろうし、海の近くの立地であれば10年を持たずして再塗装や張り替えなど必要となるかもしれないが、一般の住宅地であればまだまだ全然いける。弱点となり得るのは継ぎ目に打たれるコーキングだが、我が家のガルバリウム鋼板葺きの外壁にはほぼコーキングが使用されていないのでこちらも大丈夫。*1

といいたいところだが、ポーチの角の収まりの二か所で打たれている外壁コーキングのうち一か所で完全に切れてしまっている箇所がある。

 

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ポーチ内側のコーキングはまだ大丈夫

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道路に面した側のコーキングは終了

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あー完全に終わってるね

ポーチ外側の柱の二つの角に打たれたこのコーキング、片方の角は大丈夫でも15cm程しか離れていないもう片方の角は完全に終了してしまっているのはより直接風雨や日光に晒される側だからだろうか。ともかくコーキングの機能は全く果たしていないし、これを放置することは雨水の侵入によるガルバリウム鋼板の錆びや柱の腐れにつながるので放置は出来ない。ということで打ち直すことしたのだが、それに先立っての古いコーキングをきれいに剥がす作業が打ち直しの三十倍くらい大変で、完全に切れてしまってもはやコーキングの用をなしていないにも関わらず、残りの部分が鋼板にガムのようにしぶとく張り付いて中々剥がせないという。往生際の悪いこと大戦末期の日本軍のごとし。またガルバリウム鋼板を固いもので擦ると容易に傷がつくので*2容赦なくゴリゴリ擦りまくる訳にもいかず、ヘラと溶剤を併用して何とか古いコーキングを除去したものの、これ外注したら工賃の大半は除去作業にかかることになるんだろうな。一定期間が経過したら一気に風化してボロボロと崩れるコーキング剤をどこかのメーカーが開発したらヒットすること間違いない。*3

 

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日が暮れたがとにかく打ち直し完了、これであと10年は安泰?

 

*1:さすがに屋根の状態は見ることが出来ないので分からない、折を見てみてもらった方がいいのかも知れない

*2:当然ながら傷は錆びの原因になるので、放置せず塗装し直したうえでコーキングを打たなくてはいけない

*3:もちろんそうなったら間髪入れずコーキングの打ち直しを行わなくてはえらいことになってしまうのでズボラな家主が使ったらえらいことになる諸刃の剣。

11年目のリニューアル(9)洗面周り⑧ 最後のワンピース

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最後のやり残しであった洗面のタイル貼りの完了を以て、10年越しで漸く我が家は完成したと言っていい。しかし最後に一つ験担ぎ。

 

東照宮陽明門の逆柱、知恩院の瓦、下田八幡宮の扁額、姫路城の逆さ揚羽の丸瓦。

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一本だけ逆柱

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一か所だけ瓦葺き残し

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扁額の下辺が欠けている

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一か所だけ丸瓦が逆さ

 

これら錚々たる文化財とは比ぶべくもない我が家だが、偉大なる先人の例に倣い洗面タイルをわざと一枚貼り残した状態で工事を終了。即ち厳密には我が家は未だ完成にいたらず。

それが冒頭の画像、最後の一枚のタイルは壁を彩る代わりにルームディフューザーの下敷きとしてその役割を果たすこととなった。

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こんなところに最後の一枚

西施捧心の誹りを受けないよう一応その理由を記しておくと、我が国では古来より完成イコール衰退や崩壊の始まりという考えがあって、その験を担ぐためにわざと完成(ピーク)に達しないよう、わざとやり残しや誤った個所を残し敢えて不完全な状態のまま竣工する習慣があったりする。エッセイストの吉田さんも700年ほど前にエッセイのネタにしている位なので、江戸しぐさのようなでっち上げマナーの類とは違い歴とした謂れのある慣習。

確かに頂上から見渡せばどちらを向いても下り坂しかない。一寸の虫にも五分の魂、家運がだだ下がりとならずいつまでも発展途上の右肩上がりとなるようにとの願いがこの小さなタイルの一片に込められている。その最後のワンピースの置き場が猫トイレの上というところで果たして家主がどこまで真剣なのか疑われるところではあるが。

 

 

 

11年目のリニューアル(8)洗面周り⑦ 一月かけて漸く完成

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電球色照明下での「アヴァロン」の色味はこんな感じ

 

年末から慌ただしかった身辺が漸く落ち着く目途が立ったところで、そういえば洗面リニューアルの完結編を上げていなかったのを思い出して久々に更新。

切って貼って切って貼って切って切って貼ってと無数に繰り返したタイル張り。
貼りも貼ったり総枚数は355枚、うち切断加工は173枚(さっき数え直した)。
ほぼ2枚に1枚は切った貼ったを行ったことになる。張った壁面は三面で上端と下端と両端部分はほぼ要カット、それら以外にも排気ダクトや照明や水道管やコンセントやスイッチなど、現物合わせでカットしなければならない箇所は少なからずあるのだからさもありなん。その他タイルが足りなくなって余りタイルを貼り合わせたりもしているので尚更枚数が増える*1

 

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排気ダクトはこのように避ける。どうせカラーで隠れるから見てくれはいいのよどうでも

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サブウェイタイルの目地は黒が多いが、一階は出来るだけ白基調としたいので白目地を選択

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ステンレス水栓とソープディスペンサー、アルミのスイッチパネルとの相性もばっちり

9月の四連休だけでは到底完成に至らず、在宅勤務の合間に少しずつ工事を続行して10月半ばに漸く完了。心なしか以前より明るく広々とした洗面所に見えるのは施工者の僻目か。総工費およそ50万円が高いか安いか、まあ高いっちゃ高いが、折角苦労して仕上げたのに今後毎朝歯を磨くたびに「あーここんとこケチらなければよかったなあ」と軽く気が滅入る人生を送ることになるのは全く割に合わない。10万円や15万円やそこいらを節約するために本意でない選択をしなくてよかったなあと思いながら今日もしょぼしょぼと顔を洗い歯を磨くのであった。しょぼしょぼ。

 

*1:基本タイルは箱売りなので結構な数の余りが出るのがタイル貼りの常、だが今回の工事においては完全な形で余ったタイルは一枚もない。何というエコ発注

今いる地点で既に成功している、という考え方

所ジョージといえばタレント活動よりも今や車・バイク・エアガンなど男子の趣味を突き詰めた趣味人として有名で、当然というか彼の周辺も常に彼の好きなモノで溢れているわけだけど、そのマキシマリスト的な棲家とは反対に人生観は極めてシンプルというか寧ろミニマリストに近いという話。手間がかかることは面倒ではなく楽しいことだとかいう考えなど、夜になると七カ所に分散された二階の照明スイッチを入れて廻る面倒さを楽しんでいる自分は鎖骨の間に顎が食い込むくらい深く頷いてしまう。この人は楽しむことの達人だね

 

 

 とにかくワンフロアでも高層にある部屋に住みたい、一平米でも広い家に住みたい、スズキでなくBMWに乗りたい、1㏄でも排気量の大きいバイクに乗りたい*1という欲求は本当にあなたのものですか、と考えてみるとそれは自分の欲望でなく、実は周囲からこう見られたいという欲望に過ぎないこともよくあるのではないだろうか。自分の価値は他者が決める、なので他人に一目置かれることが俺の幸せだって言いきれる人はそれでいいかもしれないが、社会的な評価基準と内面の幸福基準を混同しない方がいい。なぜなら他者からの評価は必然的に上下の概念を伴うものであり、「あいつに比べて俺は勝っている」を「あいつに比べて俺は幸せだ」とするのであれば「あいつに比べて俺は負けている」イコール「あいつに比べて俺は不幸せだ」となり、ならばどこまでいっても上には上がいる事実の前にいつまでも不幸感、敗北感からは逃れられない。したがって自分の欲求よりも他人の評価に幸せの基準を置く人生は永遠にハードモードのままとなる*2。若い子がタワマンタワマン言っているのは微笑ましいものがあるが、その浅くて分かりやすーい価値基準のまま年食っちゃったら結構辛い人生になるんじゃないかなあ。

我が身を振り返ってみれば専ら自分の好きなように誂えた家と気に入った車とバイクと居候ズと、あとはそういったものをわちゃわちゃ楽しめる健康と時間と維持できる程度の経済力があればそれ以上望むことはほぼないなと。それを他人がどう評価するかなんて全然眼中になくて、だって別にローン返済を手伝ってくれる訳でもない赤の他人が何を言おうと何の関係もないでしょう。なので家も好き勝手に切った貼ったを楽しんでいる。一般的にはプロに頼むのが正解であっても自分の基準ではそうではない。

そんな自分が「どうですカッコいいでしょう」と言いたげな、いかにもスタイリッシュな家ではなく自分の好きな色に染められるシンプルな箱としての家とそういった家を提供する建築士を選んだのは僥倖というよりやはり必然であったのかもしれない。求めよさらば与えられん、というのは一面の真実であるという点でやはりイエスはさすがだなと。いよっ元祖名言製造機*3。まあ人も羨む豪華さとかカッコよさとか螺旋階段とかを求める人はS氏に家づくりをお願いしないとは思うけど。他の施主の方にお会いしても何こいつと思うことがまずないのはそういったことも理由なんだろう

 

*1:バイク乗りの世界には排気量が大きいほど偉いという価値観を信奉する「排気量マウントおじさん」と呼ばれる種族がおりまして

*2:あいつは俺より勝っている、だけど俺は負けずに幸せだと無理なく思えるかどうか。例えばあなたとスティージョブズとでは社会的な評価において月とミジンコかもしれないが、地中にいる彼が最早永遠に味わうことができない冬晴れの気持ちいい空を仰げるだけ今日のあなたは彼より幸せだ

*3:当代きっての名言製造機といえば勿論ROLAND様である